――体が怠い。
汗でぼやける視界を懸命に調えて、ここ数ヶ月で慣れきった家の天井を見る。
風邪だろうか。多分そうだろう。頭の中がぐわんとして、巧いこと物事を考えられないが、恐らく。
体の倦怠感自体はもはや日常のもので、それに対する恨み言はこちらが飽きるくらいに繰り返し伝えてきたつもりだが、今回は勝手が違っていた。
まず腕が動かない。体全体に満遍なく重石が乗っているような、如何ともし難い感覚。そして寒い。寒いが熱い。着古しの服は湿りきり、額からはしどとに汗が流れて、今まさに絶え間ない瞬きを強いられている。
懐かしいな、と思った。
アダーラに――今は無きあの国に居た頃は、よくこうして体調を崩したものだ。
特に冬場、寒くなりかけの頃が危なかった。いつもの調子で夜更かしをして、倒れ込むように眠って、起きたらこうだ。不快感に呻きながら横を見ると、「もう、ホントーにシリウスは学習しないよね! 毎ッ回毎ッ回俺に手ぇかけさせてさぁ、そんなんでよく一人で大丈夫だなんて言えるよねー?」等と愚痴を零しながら、慣れた手つきで布を替えるアースの姿が、いつも――
「……。」
思い出に導かれて、ベッドサイドに視線を移す。アースの姿は当然ながら無い。
部屋の中はがらんとしていて、居るだけで家全体を明るく照らすような家主の気配も感じ取れない。
不意に寒気がして、広いベッドの上で一人、自由にならない身を捩る。
「は、……」
絞り出した吐息は乾き、引き攣れた痛みだけを喉元に残した。
熱に因ってか因らずか、急速に歪み出す視野を拒むべく目蓋を閉じても、一度身の内に抱えた不安は消えず、ますます大きくなるばかり。
「……バースト……」
――あいつは何処に行ったんだろうか。
あんなに俺が好きだ好きだ一番だと言っておきながら、今ここに居ないのはどういうわけだ。
別に付きっきりで看病して欲しいとは思っていない……思っていないが、いつもだったら俺が起きるまで、いや起きてからも、何だかんだと理由をつけては傍に居てちょっかいを出してきたのに。あれか、俺があまりに長く寝ているものだから、痺れを切らして出かけてしまったのか? 俺が発熱したのはその後で――だから、バーストは具合の悪い俺を置いていったのでは、ない、はず――
「……馬鹿か、俺は」
ぐるぐると巡る自己中心的な思考に戒めの一言を吐き、投げやりな気持ちで身を起こす。
目の前が回り、頭蓋が締め付けられるように痛んだが、風邪なのだから仕方がない。服を替えて、汗を拭って、出来るだけ温かくして、あとそうだ、何か水分を摂らなければ。これでも昔――レグルスと離れてからアースを召喚するまでの短い期間だったが、その時は一人できちんと治せたんだ。今回だって大丈夫だ。
壁に片手をついてふらつく体を支え、逆の手で痛む頭を抑えて、一歩一歩慎重に歩みを進める。
確か替えの服は纏めて一箇所に押し込んであったはず。放っておくと脱いだ服と一緒くたになって訳が分からなくなるから、「保管場所を別にしろ」と怒鳴ったのは俺だ。本当はもっとこまめに洗濯できたら良いんだが、ヒトの足で山を歩くのは並大抵ではなくて、ああ、それにしてもなんて暑い家だ。剥き出しの足の裏さえ汗でぬめっているような気がする。全身に付き纏う虚脱感といい、油断すると転びそうで怖い。服を入れてあるチェストまで後どのくらいだ? 目には見えているのになかなか近づけない。だが、もう少し……
「――ッ」
ごぅん、と地の底から湧き上がる震動。
噴火だと理解した時には既に体勢が崩れていた。
ただでさえぐらついていた平衡感覚が木っ端微塵になり、前のめりに倒れ掛かる。
何てことだ、ああ、でも家具を固定しておいてよかった。そんな安閑とした思考を最後に、意識を落とそうとして――
「シリウス!」
温かい腕に抱き留められる。
「……バースト」
切羽詰った呼び声に忙しなく上下する肩。
傍らには、ここらでは見かけない氷の入った袋。
案じていてくれていたのだと分かれば、この上ない安心感が胸を満たした。
――「来てくれると思ってたよ」。そう呟きかけて、バツの悪さに口を噤む。今の今まで散々不安がっていたのは何処の誰だ。
「シリウス、おい、シリウス。大丈夫か?」
「……ああ」
「具合悪ぃのに歩き回るなんて、何考えてんだよ。何か気になるものでもあったのか? 俺が戻ってきてから言ってくれりゃあよ……おい?」
怪訝げに問いかけられて初めて、両の手でバーストに縋りついている自分に気付く。
頭の中は相変わらずぐらぐらして、目の焦点も合わない。噴火が続いているか否かさえ定かでない。
そんな中、唯一の拠り所が帰ってきて、俺を抱いている。縋るなと言う方が無理だ。俺は、弱い。
「シリウス…… ってオイオイオイ、また熱が上がってるじゃねーか!」
「……っ、そう、か?」
氷を持っていたからだろうか。ひやりとした指先が首筋に触れ、反射的に目を伏せる。
「そーだよ! 大人しくしてろっつっただろ? ちっと目を離すとこれだからなぁ……ま、そんな危なっかしいところも可愛いんだけどよ」
首元に滑り込んだ手はそのまま背に回り、気付けば抱え上げられていた。
あれ、と瞬いた時には先ほど抜け出したベッドが目前で、自分の歩いた距離が余りにも短かった事を知る。
常に無く慎重な動作で体を下ろされ、ようやく落ち着いた重心に安堵の溜息を吐いた。
大丈夫大丈夫と楽観した端からこの失態。情けないとはこのことか。
「なぁ、シリウス」
知らず彷徨っていた目線を宙に投げれば、真面目な顔をしてこちらを見下ろすバーストの視線とかち合った。
思わず逸らしかけて、止める。バツの悪さは相変わらずだったが、今はそれにばかりかまけていられない気がした。
「……何だ?」
「お前、何か欲しいものがあるんだろ。どれだ?」
「……?」
欲しいもの? 今更欲しいものなんて、俺にあっただろうか。
異界にいる間も何度か耳にしたことのある問いだったが、その時も今も、返す言葉は決まっている。
「いや、特には無――」
「嘘つけ。欲しいものがあったから抜け出したんだろ。とりあえず氷だけは大急ぎで取ってきたけどよ、他は俺じゃわからねぇ。どれだか言えよ、何でも持ってきてやる」
「あ……、あぁ、そうか……」
そういうことか、と喘ぐ息の下で呟いて、先ほど求めたものを思い出す。
着替えと、水と、体を拭う布と。後は――
――後は。
「……いい」
「アァん?」
「何も持ってこなくていい、から……」
シーツの上を這うだけでも引っ掛かりを覚える手を無理矢理持ち上げて、訝しげな表情を隠さないバーストの外衣に触れる。摘む。引く。そして呆気なく落ちかける。寸でのところで掴まれはしたが、腕の力は完全に抜け、もはや自らの意思では指先一寸たりとも動かせそうになかった。
ここまで酷く体調を崩したのは本当に久しぶりで、だからだろうか、妙に気弱になってしまうのは。
「シリウス、」
「……傍、に、居てくれ」
搾り出した声は切れ切れに掠れて、うまく届いたか自信がなかった。
着替えも水も布も欲しい。欲しいが、それを取りに行くためにバーストが自分の傍から離れてしまうのは嫌だった。子供じみた我儘だと自分でも分かっている。それでも嫌だった。
「……」
「…… バース……っう!?」
なかなか返らない反応に再び不安になり、名を呼んだ途端に襲い掛かってきた衝撃。
思わず息を詰めてみれば、正気を疑うような賛辞の言葉を耳傍で矢継ぎ早に繰り返され、腕一本どころか全身が脱力した。
幸い具合が悪化するような乱雑な抱かれ方はしていなかったが、ぴくりとも身動きできない状況はあまり歓迎できない。というか暑い。熱い。――温かいとも、やはり言うのだが。
「……よし、じゃあ落ち着くまで傍にいてやるよ。で、何が欲しいんだ?」
一向に止まない賛辞に辟易し始めた頃、不意に真剣味を帯びた眼差しに覗きこまれて、一瞬だけ目を瞠る。
「……水と着替えと、何か体を拭くもの……」
「分かった」
言葉と共に降って来た重みに目を上げれば、ちょうど取ってきたばかりの氷を詰めた皮袋を額に乗せられているところだった。
熱に侵された頭に染み入る冷たさ。頭痛や眩暈も少しずつ治まっていく気がして、細く長く息を吐く。
一度跳ね上がった鼓動は瞬く間に落ち着きを取り戻し、汗で絡んだ髪を梳く手に安らぎすら覚えた。
「……お前は俺を舞い上がらせるのが上手いな、バースト」
自由になる方の手で自分のものではないそれに触れて、ふと微笑む。
共に暮らし始めてからまだ一年にもならないのに、この手が慈しみを以って触れてくることにもう随分と慣れてしまった。
頭を抱えることも無いではないが、それもまた幸せのうちに数えられるのだろう。
「おかげで俺はどんどん我儘になる」
返せるものなど何も無いのに。それこそ傍にいることしか出来ないのに、バーストはそれでいいと言う。
いつの間にかその言葉に甘んじている俺がいて、少し恐ろしくなる。分を忘れた自分など認められそうに無い。守るべきヒトも居なくなった今、俺は本当に何も出来ないから。
「迷惑だろう」
「まさか。もっともっと我儘言ってくれて構わねーんだぜ? 前にも言ったが、俺は楽しんでやってるんだからよ」
「……嫌にならないか?」
「なるわけがねぇだろ」
問いかけた端から返る否定に、嬉しいのか苦しいのか判らなくなって目許を隠した。
バーストの言葉は俺を自由にさせるもののはずなのに、逆に隙間無く追い詰められていく錯覚を覚えるのは何故だろう。
追い詰める――そういえば、まだバーストの本気が本気だと知らなかった頃、俺はその言葉さえ冗談だと思ったものだ。まさか本当にバーストがヒトを滅ぼしてしまうなんて事、あの時は想像してすらいなくて、気付いた時には全てが終わっていくところだった。
いつも何処かしらに逃げ道を探し、期待し、そして結局袋小路に行き詰るのが俺というヒトの性なら、抵抗するだけ無駄なのだろうか。或いは抵抗することそのものが間違いなのか。どうやったら腹を括れるのか、今はまだ分からないが。
物思いに沈みかけた刹那、シリウス、と低まった声で名前を呼ばれて、視界を閉ざしていた腕を退ける。
「お前が俺から離れねぇこと、俺のものであること。それが、俺がお前に求める全てだ。代わりに俺はお前の望みを何でも叶えてやる。だから、それでいーんだよ」
「……」
――俺はバーストが好きだ。
やることなすこと大雑把で強引で、人の話もロクに聞いていないことが多いが、思わぬところで優しい。その大柄な体も、いつも自信を湛えた顔も、事あるごとに触れる手も好きだと思う。いつまでも一緒にいられたら幸せだと思う。愛されていたいと思う。
俺は本当に貰ってばかりだ。
「分かったか、シリウス?」
物分りの悪い子供に言い聞かせるような口調。湿った頭をポンと叩かれる。
こうして宥められるままに頷いてしまっても、きっと何も問題は無いのだろう。それを疑わない程度にはバーストの本気を知っている。
だが、だからこそ、俺もバーストのために何かしてやりたいと思う。傍にいるばかりでなく、何か返したい。俺にあるものなんて、この身一つと言葉だけだが――
「ああ……、ああ、そうだ」
はたと思い至った事柄に、唇の端を持ち上げる。
こちらに上体を傾けたまま、怪訝げに眉を顰めるバーストを視界の中心に据えて、真っ直ぐに腕を伸ばした。
長く乾いた髪に触れ、輪郭を辿り、肌を確かめ、未だ絡んだままの手を握り合わせて、笑む。
「……ありがとう、バースト。俺の傍にいてくれて――帰ってきて、くれて」
体の不調に気付いてくれた。わざわざ氷を取ってきてくれた。倒れかけた俺を支えてくれた。今も、こうして手を伸ばせば届く場所に居てくれる。
全部が全部俺のため。心苦しく感じる以上にありがたくて、幸せで。
「バーストが好きだ」
言い終えた直後、再び体を襲った衝撃すら、今は得難いものに感じられてならなかった。
湿りきって用をなさなくなったシャツを脱ぎ捨て、手渡してもらった布で全身を拭く。
体の具合は大分落ち着いてきていた。熱はまだ高いようだが、悪寒は治まり、倦怠感もいくらかマシになっている。
汗は拭っても拭ってもじわじわと滲み、この分では用意してもらったシャツもすぐ駄目になりそうだが、幸い替えの服自体は山のようにあった。
「……バースト?」
先ほどまで「俺がやる」と言って聞かず、必要ないと言い張る俺といつも通りの口論を繰り広げた
(埒が明かなくなったので、今度はぬるま湯を取りに行かせた。「さっきまでは可愛かったのによ」という恨めしげな呟きは聞かなかったことにした)バーストが妙に静かだ。不審に思ってその顔を覗き込めば、随分と深刻げに引き締められた表情に気付いて眉を寄せる。
「どうした? お前がそんな顔をするなんて珍しいな」
出ている間に、何か気に掛かることでも見つけたのか。常に緊張状態だった異界ならまだしも、のんびりとした時の流れるこの精霊界で、そこまで深刻な顔をする要因があるとは思えない。だが、万が一ということもある。
「あー、いや。そうじゃねぇよ! そうじゃねーけど……」
「ん?」
伺う視線に緊張を感じ取ったのか、ひらひらと片手を振ってバーストが応える。
それから再び表情を引き締めて、射抜くようにこちらを見た。
「シリウス。お前が体調を崩したのは俺のせいだな?」
「は、……えぇ?」
何を言い出すんだ、こいつは。
握り締めたままの布から湯と汗が一緒くたに零れていくのにも構わず、ただただ両目を見開く。
「何でそんな――」
「最近体が弱ってただろ。なのに氷場なんかに連れてったからよ……」
「ああ……」
言われて回想するのはつい二、三日前の事。
あの日は何時に無く頻発した噴火のせいか、ただでさえ蒸し暑い家の室温が一段と高まり、ヒトの身からすればまさに地獄と呼べる惨状になっていた。さすがに干乾びかけた俺を見兼ねたバーストが向かったのは、いつも氷を仕入れてくる高山だったのだが――
「……まぁ、確かに温度差は激しかったが。だからってバーストのせいじゃないだろ? ちゃんと俺が冷えすぎないように気を遣ってくれてたじゃないか」
体調を崩した直近の理由はそれかも知れないが、あのまま家で過ごしていたって遠からずおかしくなったはずだ。それ程に例の日の暑さは異常だった。耐え切れないと見るや、即座に俺を抱えて涼しい場所に飛んでくれたバーストにどれだけ感謝したことか。あの瞬間の安堵には何にも換え難い価値がある。
「でも、現にシリウスは寝込んじまっただろ。苦しそうな顔してよ。急激に体を冷やしたらよくないんじゃねぇかって、俺がもうちっと早めに気付いてりゃ、こんな目に遭わさずに済んだんじゃないかと思ってな」
手を止めてしまった俺の代わりに、いつの間にか取上げていた布でバーストが残りの汗を拭っていく。
その仕草を横目で追いながら、妙に落ち着かない気持ちを誤魔化すように苦笑した。
「仕方がないだろう。バーストは精霊で、俺はヒトだ」
俺は召還士だから精霊についてもある程度知識を持っているが、バーストはそうじゃない。
ヒトの中でも丈夫な方ではなかった俺と、大病知らずの精霊とでは、健康管理の認識に差があって当然だ。
悪いと言うなら、まあ大丈夫だろうと楽観していた自分が一番悪い。
これからは気をつけるよ、と安請け合いした俺の肩に間新しいシャツを被せ、そのまま身を寄せてきたバーストを仰ぎ見る。
「それでも俺は、シリウスの体のことなら理解してやりてえ」
広い胸に抱きこまれながら聞いた言葉に喉が鳴った。
――「その気持ちだけで充分だよ」。
そんな当たり障りのない台詞を口に上らせようとして、寸前で止める。――充分なのか? 本当に?
「……バースト」
痞えてしまった返答の代わりに、全身の力を抜いてバーストに凭れかかる。
未だ熱は下がらず、頭の芯は朦朧としている。憔悴しきった体に這い寄る眠気は強く、あと数分もすれば意識は夢の中だろう。その前に。
「ありがとう」
――結局それしか言えないのか、と自分自身に呆れたが、見上げた先のバーストが満足そうに笑っていたから、俺もつられるように小さく笑って目蓋を落とした。
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